2025年6月に成立した年金制度改正法は、日本の社会保障制度において極めて重要な転換点となりました。特に注目されているのが、被用者保険の適用拡大です。これは単なる制度の微調整ではなく、パートやアルバイトといった短時間労働者の働き方や生活設計に大きな影響を与える改革となります。これまで多くの短時間労働者は、いわゆる「106万円の壁」や企業規模の制約により、厚生年金や健康保険への加入が制限されてきました。しかし今回の改正により、こうした壁が段階的に撤廃され、より多くの労働者が被用者保険に加入できるようになります。本記事では、年金制度改正による被用者保険の適用拡大について、具体的にいつから実施されるのか、どのような対象者が新たに加入することになるのか、また企業や労働者への影響はどの程度なのかといった点を、最新の情報に基づいて詳しく解説していきます。将来の年金受給額や社会保険料の負担について不安を感じている方、企業の人事担当者として対応を検討されている方にとって、必要な情報を網羅的にお届けします。

年金制度改正の背景と全体像
令和7年に成立した年金制度改正法は、日本の社会保障制度を大きく変革する内容を含んでいます。この改正が実施された背景には、少子高齢化の進行、労働市場の構造変化、そして持続可能な社会保障制度の構築という3つの大きな課題がありました。特に注目すべきは、パートタイム労働者や短時間労働者の増加です。近年、働き方の多様化が進み、正規雇用だけでなく、非正規雇用として働く人々の割合が大きく増加してきました。こうした労働者の中には、社会保険に加入できず、将来の年金受給額が国民年金のみとなってしまうケースが多く存在していました。
改正法の中核となるのが、短時間労働者への被用者保険の適用拡大です。具体的には、これまで適用を妨げていた賃金要件の撤廃と、企業規模要件の段階的な撤廃が盛り込まれています。これにより、週20時間以上働く短時間労働者は、賃金の多寡や勤務先の企業規模に関わらず、被用者保険に加入できるようになります。この変革は、推計で約200万人もの労働者に影響を与えると見込まれており、日本の社会保障制度における大きな前進といえます。
さらに、在職老齢年金制度の見直しも改正の重要な柱となっています。働きながら年金を受給する高齢者にとって、これまでは賃金と年金の合計額が一定基準を超えると年金が減額される仕組みでしたが、この基準額が引き上げられることで、就労意欲を持つ高齢者がより働きやすい環境が整備されます。また、個人事業所における適用拡大も実施され、これまで適用除外とされていた業種についても、新たに設立される事業所は被用者保険の適用対象となります。
これらの改正は、すべての労働者が働き方に関わらず適切な社会保障を受けられる環境を整備するという政府の方針を具現化したものです。特に、老後の生活保障という観点から、短時間労働者にも厚生年金への加入機会を提供することで、将来の年金受給額を増やし、安定した老後生活を送れるようにすることが大きな目的となっています。
賃金要件の撤廃とその実施時期
今回の年金制度改正において、最も大きな変更点の一つが賃金要件の撤廃です。これまで短時間労働者が被用者保険に加入するためには、月額賃金が88,000円以上であることが求められていました。この金額は年収に換算すると約106万円となり、いわゆる「106万円の壁」として広く知られています。この壁の存在により、多くの短時間労働者が意図的に労働時間を調整し、年収を106万円未満に抑える就労調整を行ってきました。
賃金要件の撤廃は、2026年10月から実施される予定です。この日以降、月額賃金の多寡に関わらず、週20時間以上働く短時間労働者は被用者保険の適用対象となります。つまり、たとえ月額賃金が3万円であっても5万円であっても、週20時間以上働いていれば、厚生年金保険と健康保険に加入することが義務付けられるのです。
この改正がもたらす影響は非常に大きいと考えられています。まず、労働者側にとっては、就労調整の必要性がなくなります。これまでは106万円を超えないように労働時間を抑えていた方々も、社会保険料の負担を気にすることなく、必要に応じて労働時間を増やすことができるようになります。これは、労働力不足が深刻化する日本社会において、労働供給を増やす効果が期待されています。
一方で、新たに社会保険に加入することになる労働者にとっては、手取り収入の減少という課題もあります。厚生年金保険料と健康保険料を合わせると、給与の約15パーセント程度を保険料として負担することになります。これまで保険料負担がなく、給与全額を受け取っていた方にとっては、短期的には家計への影響が生じる可能性があります。ただし、長期的には将来受け取る年金額が大幅に増加することや、健康保険の傷病手当金などの充実した給付を受けられるようになることから、トータルで見れば労働者にとってメリットの大きい改正といえます。
厚生労働省は、この賃金要件撤廃に伴い、労働者の負担を軽減するための特例措置を設けています。具体的には、3年間限定で保険料の本人負担を最大50パーセント抑える仕組みが導入されます。この負担軽減分は事業主が負担し、さらにその追加負担分を国が制度的に支援することで、労働者の手取り収入の急激な減少を緩和する措置が講じられています。
企業規模要件の段階的撤廃スケジュール
賃金要件の撤廃と並んで重要なのが、企業規模要件の段階的な撤廃です。現行制度では、短時間労働者が被用者保険に加入するためには、従業員数が51人以上の企業で働いていることが条件の一つとされています。この企業規模要件が段階的に引き下げられ、最終的には完全に撤廃されることが決定しました。
企業規模要件撤廃のスケジュールは、約8年間をかけて段階的に実施されます。2024年10月の時点では、すでに従業員数51人以上の企業に適用が拡大されています。そして2027年10月には、従業員数36人以上の企業まで適用が拡大されます。この時点で、比較的規模の小さい中小企業も適用対象に含まれることになります。
さらに2029年10月には、従業員数21人以上の企業まで適用が拡大されます。この段階になると、より多くの小規模事業所が対象となり、地域の商店や小規模な飲食店なども含まれてくる可能性があります。続いて2032年10月には、従業員数11人以上の企業まで適用が拡大され、かなり小規模な事業所も対象となります。
そして最終的に、2035年10月には企業規模要件が完全に撤廃されます。この時点で、たとえ従業員が10人以下の零細企業であっても、週20時間以上働く短時間労働者は被用者保険に加入することが義務付けられます。これにより、企業の規模に関わらず、すべての短時間労働者が平等に社会保障を受けられる環境が整備されることになります。
当初、政府は企業規模要件の完全撤廃を2029年に実施することを目標としていました。しかし、中小企業からの保険料負担増への懸念が強く表明されたことから、実施時期が6年延期され、2035年となりました。この延期により、中小企業は保険料負担増に向けた準備期間を十分に確保できることになります。特に、人件費が経営に大きな影響を与える小規模事業者にとっては、段階的な実施により、財務計画や価格転嫁の検討を行う時間が得られることは重要です。
この段階的な実施スケジュールは、社会保障の充実と企業の負担への配慮のバランスを取ろうとする政府の姿勢を示しています。すべての労働者に適切な保障を提供するという理念を実現しつつ、中小企業の経営を圧迫しないよう、時間をかけて制度を移行させていく方針です。
新たに対象となる労働者の範囲
今回の年金制度改正により、新たに被用者保険の適用対象となる労働者は、主に3つのグループに分類されます。第一のグループは、週20時間以上働いているものの、月額賃金が88,000円未満のため、これまで被用者保険に加入できなかった短時間労働者です。賃金要件の撤廃により、これらの労働者は2026年10月から被用者保険に加入することになります。このグループには、パートタイムで働く主婦や学生、副業として短時間勤務を行っている方などが含まれます。
第二のグループは、従業員数50人以下の中小企業で週20時間以上働く短時間労働者です。企業規模要件の段階的撤廃により、2027年10月以降、順次適用対象となっていきます。地域の商店や飲食店、小規模な製造業など、様々な業種の短時間労働者がこのグループに該当します。
第三のグループは、個人事業所の非適用業種で働く従業員です。これまで農業、林業、漁業、飲食業、旅館業、理容業、美容業などのサービス業は、個人事業所の場合、常時5人以上を雇用していても被用者保険の適用対象外とされてきました。今回の改正により、新たに設立される個人事業所については、これらの業種も適用対象となります。ただし、既存の事業所については経過措置があり、当面は従来通りの扱いが継続されます。
厚生労働省の試算によると、今回の適用拡大により、新たに約200万人が被用者保険に加入することになると推計されています。これは、現在の厚生年金保険の被保険者数の約4パーセントに相当する規模であり、非常に大きな影響をもたらす改正といえます。
対象となる労働者の具体的な条件を整理すると、週の所定労働時間が20時間以上であること、雇用期間が2か月を超える見込みがあること、そして学生でないこと(一部例外あり)という3つの要件を満たす必要があります。賃金要件は2026年10月から撤廃されるため、それ以降は賃金の多寡は問われません。また、企業規模要件は段階的に撤廃されるため、自身が勤務する企業の従業員数と実施時期を確認することが重要です。
学生については、原則として被用者保険の適用対象から除外されますが、いくつかの例外があります。卒業見込証明書を有し、卒業前から就職して卒業後も引き続き同じ事業所に勤務する予定の学生、休学中の学生、夜間の大学や高校に通う学生、通信制の課程に在籍する学生などは、被用者保険の適用対象となります。これらの学生は、実質的に通常の労働者と同様の働き方をしているため、社会保険加入が義務付けられています。
在職老齢年金制度の見直しと実施時期
今回の年金制度改正では、短時間労働者への適用拡大と並んで、在職老齢年金制度の見直しも重要な改正項目となっています。在職老齢年金制度とは、60歳以降も厚生年金保険の被保険者として働きながら老齢厚生年金を受給する場合に、賃金と年金の合計額が一定基準を超えると、年金の一部または全部が支給停止となる制度です。
現行制度では、令和6年度において、賃金と年金の合計額が月額51万円を超えた場合、超過分の2分の1相当額の年金が支給停止となります。この基準額を「支給停止調整額」と呼びます。今回の改正により、この支給停止調整額が令和8年度から62万円に引き上げられることが決定しました。具体的な施行日は、2026年4月1日となります。
この改正の背景には、高齢者の就労意欲を促進し、働きたい高齢者が働きやすい環境を整備するという政策目的があります。日本は世界でも類を見ない速さで高齢化が進行しており、労働力人口の減少が深刻な課題となっています。一方で、高齢者の中には健康で働く意欲を持つ方も多く、こうした方々が活躍できる環境を整備することは、社会全体にとって重要です。
支給停止調整額を51万円から62万円に引き上げることで、年金を受給しながら働いても年金が減額されにくくなります。これにより、高齢者がより積極的に就労を継続できるようになり、豊富な経験と知識を活かして社会に貢献し続けることができます。厚生労働省の推計では、この改正により、約20万人が従来よりも多くの年金を受け取れるようになるとされています。
特に、企業で重要なポストに就いている高齢者や、高い賃金を得ながら働き続けたい高齢者にとっては、大きなメリットとなります。これまでは、賃金が高いために年金が大幅に減額されるという状況がありましたが、基準額の引き上げにより、その影響が緩和されます。また、高齢者の就労促進は、社会保険料収入の増加にもつながり、年金財政の改善にも寄与すると期待されています。
なお、62万円という金額は令和6年度の物価水準を基準としているため、実際に令和8年度に適用される金額は、その時点での賃金や物価の変動に応じて調整される可能性があります。在職老齢年金制度は、毎年度、賃金や物価の変動に応じて支給停止調整額が改定される仕組みとなっているため、最新の情報を確認することが重要です。
企業への影響と必要な対応
今回の被用者保険の適用拡大は、労働者だけでなく、企業にも大きな影響を与えます。企業は、新たに適用対象となる短時間労働者の保険料の半額を負担する必要があるため、人件費が増加することになります。特に、多数の短時間労働者を雇用している飲食業、小売業、サービス業などの企業では、保険料負担の増加額が経営に大きな影響を与える可能性があります。
厚生労働省の試算では、企業全体で年間数千億円規模の保険料負担増が見込まれています。この負担増に対応するため、企業はいくつかの選択肢を検討する必要があります。第一の選択肢は、人件費増加分を価格転嫁することです。商品やサービスの価格を引き上げることで、増加した人件費をカバーする方法ですが、競争環境によっては難しい場合もあります。政府は、中小企業や個人事業主の負担軽減のため、労務費を含む価格転嫁を推進する方針を示しており、適正な価格設定により保険料負担増を適切に転嫁できる環境整備を進めています。
第二の選択肢は、生産性向上や業務効率化により、人件費増加を吸収することです。ITツールの導入や業務プロセスの見直しなどにより、少ない人数で同じ業務をこなせるようにすることが考えられます。業務改善助成金などの制度を活用することで、生産性向上のための設備投資に対する支援を受けることも可能です。
第三の選択肢として、短時間労働者の労働時間を週20時間未満に調整することも理論的には可能ですが、この方法は労働力不足を招く可能性があり、長期的には企業の成長を阻害する恐れがあります。また、労働者の生活にも悪影響を与えるため、望ましい対応とはいえません。
政府は、企業の負担を軽減するため、様々な支援措置を設けています。特に重要なのが、3年間限定の保険料負担軽減措置です。この措置では、保険料の本人負担を最大50パーセント抑える特例が設けられ、負担軽減分を事業主が負担し、その追加負担分を国が制度的に支援します。これにより、企業の負担増が一定程度緩和されるとともに、労働者の手取り収入の急激な減少も防ぐことができます。
さらに、キャリアアップ助成金も活用できます。この助成金は、有期雇用労働者や短時間労働者、派遣労働者などの非正規雇用者の正社員化や処遇改善を図る企業に対して助成する制度です。短時間労働者を正社員化したり、処遇を改善したりする際に、この助成金を活用することで、企業の負担を軽減できます。
企業は、改正法の施行スケジュールに合わせて、計画的な準備を進める必要があります。まず、自社の短時間労働者の人数と労働時間を正確に把握し、いつの時点で何人が新たに適用対象となるかを確認することが重要です。次に、人事労務管理システムの改修が必要です。給与計算システムや勤怠管理システムを、新しい適用基準に対応させる必要があります。特に、週20時間以上の労働時間管理を正確に行うことが求められます。
また、従業員への説明も非常に重要です。新たに被用者保険の適用対象となる労働者に対しては、保険料負担が発生すること、その一方で将来の年金額が増加することや健康保険の給付が充実することなどを、丁寧に説明する必要があります。厚生労働省が提供する「適用拡大特設サイト」には、保険料シミュレーションツールや公的年金シミュレーターなどが用意されているため、これらを活用して具体的な数字を示しながら説明することが効果的です。
労働者にとってのメリットとデメリット
新たに被用者保険の適用対象となる労働者にとって、この制度改正は短期的にはデメリット、長期的にはメリットをもたらすと考えられています。まず短期的なデメリットとして、手取り収入の減少が挙げられます。厚生年金保険料と健康保険料を合わせると、給与の約15パーセント程度を保険料として負担することになります。これまで保険料負担がなく、給与全額を受け取っていた方にとっては、家計への影響が生じる可能性があります。
例えば、月額8万円の給与を受け取っている短時間労働者の場合、保険料負担は約1万2000円程度となり、手取り額は約6万8000円に減少します。年間では約14万4000円の手取り減少となるため、決して小さな影響ではありません。ただし、政府が導入した3年間限定の負担軽減措置により、保険料の本人負担を最大50パーセント抑えることができるため、激変緩和措置が講じられています。
一方、長期的には大きなメリットがあります。最も重要なのは、将来受け取る年金額が増加することです。国民年金のみの場合、令和6年度の満額で年間約816,000円の年金を受け取ることができますが、厚生年金保険に加入することで、これに報酬比例部分が上乗せされます。仮に月額8万円の給与で20年間厚生年金に加入した場合、年間で約10万円から15万円程度の年金が上乗せされる計算になります。
また、障害年金についても保障が充実します。国民年金では障害等級1級・2級のみが対象ですが、厚生年金保険では3級まで対象となり、保障の範囲が広がります。障害厚生年金は、比較的軽度の障害であっても受給できるため、万が一の際の保障が手厚くなります。
遺族年金についても、国民年金の遺族基礎年金に加えて遺族厚生年金が支給されるため、より手厚い保障を受けることができます。遺族基礎年金は子どもがいる場合のみ支給されますが、遺族厚生年金は子どもの有無に関わらず配偶者に支給されるため、保障の対象範囲が広がります。
健康保険に関しても、メリットがあります。国民健康保険では受けられない傷病手当金や出産手当金などの給付を受けられるようになります。傷病手当金は、病気やけがで働けなくなった場合に、給与の約3分の2が最長1年6か月支給される制度で、生活の安定に大きく貢献します。出産手当金は、出産のため働けない期間について、給与の約3分の2が支給される制度です。
さらに、就労調整の必要性がなくなることも大きなメリットです。これまでは106万円の壁を意識して労働時間を調整していた方も、賃金要件の撤廃により、必要に応じて労働時間を増やすことができるようになります。これにより、キャリアアップの機会が増えたり、収入を増やすことができたりする可能性があります。
第3号被保険者制度への影響
被用者保険の適用拡大は、いわゆる「第3号被保険者」制度にも影響を与えます。第3号被保険者とは、会社員や公務員に扶養されている配偶者で、年収130万円未満であり、保険料を負担することなく国民年金の給付を受けられる制度です。現在、約800万人が第3号被保険者として登録されており、その多くは専業主婦やパートタイムで働く既婚女性です。
今回の被用者保険の適用拡大により、これまで第3号被保険者であった配偶者のうち、週20時間以上働いている方は、順次被用者保険に加入することになります。賃金要件が撤廃されることで、たとえ年収が130万円未満であっても、週20時間以上働いていれば被用者保険に加入し、第3号被保険者ではなくなります。これにより、第3号被保険者の数は徐々に減少していくことが予想されます。
ただし、130万円という扶養の基準自体は今回の改正では変更されていません。被用者保険に加入しない労働者については、引き続き年収130万円未満であれば第3号被保険者として扱われます。また、週20時間未満の短時間労働者についても、引き続き第3号被保険者として扱われる可能性があります。
第3号被保険者制度については、保険料を負担せずに年金給付を受けられることの公平性や、女性の就労意欲を阻害しているとの批判があります。今後、さらなる制度見直しの議論が進む可能性があります。政府は、2024年に実施された5年に一度の年金財政検証において、第3号被保険者制度の見直しも議論の俎上に載せましたが、2025年の改正では具体的な改革は盛り込まれませんでした。
第3号被保険者から被用者保険の被保険者に移行することで、保険料負担が発生する一方、将来の年金額は増加します。また、健康保険についても、被扶養者から被保険者本人となることで、傷病手当金などの給付を受けられるようになります。長期的には、自身の社会保障を自分で築くという観点から、望ましい変化といえるでしょう。
年収の壁問題と今後の展望
日本の社会保障制度には、いわゆる「年収の壁」と呼ばれる複数の基準が存在します。主なものとして、103万円の壁、106万円の壁、130万円の壁、150万円の壁などがあります。103万円の壁は所得税の課税基準で、これを超えると本人に所得税が課税されます。ただし、2025年度の税制改正により、この基準は123万円に引き上げられました。
106万円の壁は、一定の条件下での社会保険加入基準でしたが、今回の年金制度改正により、賃金要件が撤廃されるため、実質的に撤廃されることになります。130万円の壁は、扶養から外れる基準で、これを超えると第3号被保険者ではなくなり、自分で国民年金と国民健康保険に加入する必要があります。150万円の壁は、配偶者特別控除の満額適用基準で、これを超えると配偶者の所得控除額が段階的に減少します。
これらの年収の壁の存在により、多くの短時間労働者が就労調整を行い、意図的に収入を一定額以下に抑える傾向がありました。これは、日本経済全体の労働供給を抑制し、人手不足を悪化させる一因となっていました。今回の年金制度改正により106万円の壁が撤廃されることで、就労調整の動機の一つが取り除かれます。
ただし、130万円の壁については今回の改正では手をつけられていません。この壁を超えると、被用者保険に加入していない場合は国民年金と国民健康保険に自分で加入する必要があり、保険料負担が大きく増加します。このため、130万円の壁を意識した就労調整は依然として残る可能性があります。
政府は、年収の壁問題に総合的に対応するため、2023年10月から「年収の壁・支援強化パッケージ」を実施しています。この支援パッケージでは、繁忙期に残業等で一時的に年収が130万円を超えた場合でも、事業主がその一時的な事情を証明すれば、引き続き扶養に入ることができるという特例措置が設けられています。これにより、一時的な収入増加を恐れて就労を控える必要がなくなります。
また、新たに被用者保険の適用対象となる短時間労働者に対しては、手取り収入の減少を補うため、事業主が保険料の労働者負担分を上回る手当を支給した場合、その費用の一部を助成する制度も設けられています。これらの施策により、年収の壁を意識せずに働ける環境の整備が進められています。
今後、さらなる改革として、130万円の壁の撤廃や見直しも議論される可能性があります。すべての労働者が年収の壁を意識せずに働ける環境を整備することは、日本の労働市場の活性化と経済成長にとって重要な課題となっています。
個人事業所における適用拡大
今回の年金制度改正では、個人事業所における被用者保険の適用も拡大されます。現行制度では、個人が経営する事業所のうち、常時5人以上の従業員を雇用している場合でも、特定の業種については被用者保険の適用対象外とされています。具体的には、農業、林業、漁業、飲食業、旅館業、理容業、美容業などのサービス業が非適用業種とされてきました。
この非適用業種の区分は、昭和28年から基本的に変わっておらず、現代の産業構造や働き方の変化に対応していないという指摘がありました。特に、同じ従業員という立場でありながら、勤務先の業種によって将来の年金額に差が生じることは、公平性の観点から問題があると考えられてきました。
今回の改正により、常時5人以上を使用する個人事業所の非適用業種が解消され、すべての業種が被用者保険の適用事業所となります。ただし、既存の事業所については、経過措置として当分の間適用しないこととされています。つまり、改正法施行後に新たに設立される個人事業所については全業種が適用対象となりますが、改正前から存在する個人事業所については、当面は従来通りの扱いが継続されることになります。
この経過措置は、既存の個人事業所における急激な保険料負担の増加を避けるための配慮です。特に、飲食業や理容・美容業など、比較的利益率が低く、人件費負担の重い業種では、突然の保険料負担増が経営を圧迫する可能性があるため、一定の猶予期間が設けられたものと考えられます。
新たに設立される個人事業所の経営者は、開業時から被用者保険の適用事業所となることを前提に、事業計画を立てる必要があります。従業員を5人以上雇用する場合は、厚生年金保険と健康保険の保険料を負担することになるため、人件費計算に保険料分を織り込んでおくことが重要です。
既存の個人事業所についても、経過措置により当面は適用除外となりますが、将来的には適用される可能性があります。今後の制度改正の動向を注視しながら、適用された場合の影響を試算しておくことが賢明です。また、任意加入という選択肢もあるため、従業員の福利厚生充実の観点から、任意で被用者保険に加入することも検討に値します。
年金財政への影響と持続可能性
被用者保険の適用拡大は、年金財政や医療保険財政にも影響を与えます。新たに約200万人が厚生年金保険と健康保険に加入することで、保険料収入が増加する一方、将来の年金給付や医療費支出も増加することになります。
短期的には、保険料収入の増加効果が大きいため、年金財政の改善に寄与すると考えられています。特に、厚生年金保険は労使折半で保険料を負担するため、従来国民年金のみに加入していた方が厚生年金に加入することで、保険料収入が大幅に増加します。国民年金の保険料は月額約16,900円ですが、厚生年金保険料は給与の18.3パーセントを労使で折半するため、月額8万円の給与であれば、労使合わせて約14,640円となります。
長期的には、これらの新規加入者に対する年金給付が発生するため、給付費も増加します。ただし、厚生年金は報酬比例部分があるため、低賃金の短時間労働者の場合、保険料負担に比べて将来の年金増加額は相対的に小さくなります。つまり、給付と負担のバランスから見ると、短時間労働者の厚生年金加入は、年金財政にとってプラスの効果をもたらすと考えられています。
医療保険については、短時間労働者の多くが若年層や主婦層であり、比較的医療費がかからない層であるため、短期的には保険料収入の増加が医療費支出の増加を上回ると予想されています。ただし、これらの方々が高齢化した際には、医療費支出も増加することになります。
厚生労働省の試算では、今回の適用拡大により、2030年代半ばまでには、年金財政と医療保険財政の両方で、収支改善効果が期待できるとされています。特に、少子高齢化が進む中で、被保険者を拡大し、保険料収入を増やすことは、制度の持続可能性を高める上で重要な施策となります。
ただし、年金制度を長期的に持続可能なものとするためには、適用拡大だけでなく、様々な改革が必要です。国民年金の保険料納付期間を現行の40年から45年に延長することや、支給開始年齢の引き上げ、マクロ経済スライドの強化など、給付と負担のバランスを適正化する施策も議論されています。
また、私的年金の普及促進も重要です。企業年金やiDeCoなどの私的年金を充実させることで、公的年金だけに頼らない老後の生活設計が可能になります。政府は、iDeCoの加入年齢上限引き上げや企業型確定拠出年金の拡充など、私的年金の普及を促進する施策を進めています。
国際比較から見た日本の制度
被用者保険の適用範囲については、諸外国でもさまざまなアプローチがあります。多くの先進国では、労働時間や賃金に関わらず、すべての被用者を社会保険の対象とすることが一般的です。日本は、これまで企業規模要件や賃金要件により、短時間労働者の多くが被用者保険の適用対象外とされてきましたが、今回の改正により、国際的な標準に近づくことになります。
ドイツでは、いわゆるミニジョブと呼ばれる月収520ユーロ以下の仕事については、雇用主のみが保険料を負担し、労働者本人の負担は軽減されています。ただし、それ以上の収入がある場合は、労働時間に関わらず社会保険に加入することが原則となっています。ドイツの制度は、低所得者の保険料負担を軽減しつつ、社会保険の適用範囲を広く設定している点が特徴です。
フランスでは、雇用形態や労働時間に関わらず、すべての被用者が社会保険に加入することが義務付けられています。短時間労働者についても同様の扱いで、雇用された時点から社会保険に加入します。フランスの社会保険料率は比較的高いですが、その分、医療や年金などの給付も充実しています。
イギリスでは、週の労働時間ではなく、年収が一定額を超えるかどうかで社会保険料の負担の有無が決まります。2024年度は年間12,570ポンドが基準となっており、これを超える収入がある場合、国民保険料の負担が発生します。イギリスの制度は、収入基準のみで判断するシンプルな仕組みとなっています。
アメリカでは、年収が一定額を超える場合、労働時間に関わらず社会保険税の負担が発生します。ただし、アメリカは国民皆保険制度ではなく、医療保険については民間保険が中心となっているため、日本とは制度の前提が異なります。社会保障税は主に年金と一部の医療保険に充てられます。
これらの国際比較から見ると、日本の今回の改正は、短時間労働者を社会保険の対象とするという点で、国際標準に近づく動きといえます。ただし、企業規模要件の完全撤廃まで2035年まで待たなければならない点は、他の先進国と比べるとやや遅いペースと言えるかもしれません。一方で、段階的な実施により、企業の負担増を緩和し、制度移行をスムーズに進めるという意図は理解できます。
施行に向けた準備と必要な手続き
今回の年金制度改正を円滑に実施するためには、企業、労働者、行政機関それぞれが適切な準備を進める必要があります。企業にとって最も重要なのは、自社の短時間労働者がどの時点で新たに適用対象となるかを正確に把握することです。企業規模、労働者の労働時間、賃金などを確認し、適用拡大のスケジュールに合わせた計画を立てることが求められます。
人事労務管理システムの改修も不可欠です。給与計算システムや勤怠管理システムを、新しい適用基準に対応させる必要があります。特に、週20時間以上の労働時間管理を正確に行うことが求められるため、勤怠管理の仕組みを見直すことが重要です。システム改修には時間がかかる場合もあるため、早めに準備を開始することが賢明です。
従業員への説明も極めて重要です。新たに被用者保険の適用対象となる労働者に対しては、保険料負担が発生すること、その一方で将来の年金額が増加することや健康保険の給付が充実することなどを、丁寧に説明する必要があります。説明会の開催や個別相談の機会を設けるなど、従業員が制度変更を理解し、納得できるような取り組みが求められます。
厚生労働省が提供する「適用拡大特設サイト」には、保険料の支払いによる手取り収入の変化をシミュレーションできるツールや、公的年金シミュレーターが用意されています。これらのツールを活用することで、個々の従業員の状況に応じた具体的な数字を示しながら説明することができます。視覚的にわかりやすい資料を用いることで、従業員の理解も深まります。
労働者側も、自分がいつから被用者保険の適用対象となるのか、保険料負担がどの程度になるのか、手取り収入がどう変化するのかを理解しておくことが大切です。また、将来受け取る年金額がどの程度増加するのかも確認しておくとよいでしょう。公的年金シミュレーターを使えば、将来の年金額を試算することができます。
日本年金機構や健康保険組合などの行政機関は、企業や労働者からの問い合わせに対応するため、相談体制の強化が必要です。特に、2026年10月の賃金要件撤廃と、2027年10月以降の企業規模要件の段階的撤廃の際には、大量の新規加入手続きが発生することが予想されるため、手続きの簡素化や電子化の推進も重要です。
電子申請システムの整備も進められています。マイナンバーを活用した手続きの簡素化や、オンラインでの各種申請が可能になることで、企業や労働者の手続き負担が軽減されます。行政機関のウェブサイトには、よくある質問とその回答がまとめられているため、疑問点があれば確認することをお勧めします。
まとめと今後の課題
2025年に成立した年金制度改正法により、被用者保険の適用が大きく拡大されることになりました。賃金要件の撤廃は2026年10月から、企業規模要件の段階的撤廃は2027年10月から2035年10月にかけて実施されます。在職老齢年金の支給停止基準額の引き上げは2026年4月から実施されます。これらの改正により、週20時間以上働く短時間労働者は、賃金額や企業規模に関わらず、順次被用者保険の対象となり、新たに約200万人が加入すると推計されています。
主な効果としては、いわゆる106万円の壁が実質的に撤廃され、就労調整の必要性が減少することが挙げられます。短時間労働者の将来の年金額が増加し、老後の生活保障が強化されます。在職老齢年金の改正により、働く高齢者の就労意欲が促進されます。また、年金財政と医療保険財政の改善も期待されています。
一方で、課題も残されています。企業の保険料負担が増加するため、特に中小企業への支援が必要です。短時間労働者の手取り収入が一時的に減少するため、丁寧な説明と支援が求められます。130万円の壁など、残された年収の壁への対応も今後の課題です。第3号被保険者制度の見直しや、国民年金の保険料納付期間の延長など、さらなる改革課題も議論されています。
今回の改正は、すべての労働者が働き方に関わらず適切な社会保障を受けられる環境を整備するための重要な改革です。少子高齢化が進む中、年金制度を持続可能なものとするためには、被保険者の拡大だけでなく、給付の適正化や私的年金の普及促進など、多面的なアプローチが必要となります。企業、労働者、行政機関がそれぞれ適切に準備を進め、円滑な実施を図ることが期待されています。
短時間労働者にとっては、短期的な手取り減少という負担はありますが、長期的には年金額の増加や社会保険の充実という大きなメリットがあります。特に老後の生活保障という観点からは、厚生年金に加入することで将来の生活の安定につながります。企業にとっても、従業員の福利厚生が充実することで、人材の確保や定着率の向上につながる可能性があります。政府の支援策を活用しながら、前向きに制度変更に対応していくことが重要です。
 
  
  
  
  

コメント