救急搬送時にマイナ保険証が読み取れないトラブルは、通信環境の不安定さ、顔認証の限界、暗証番号入力の困難さなど複数の要因が重なって発生しています。2024年12月に従来の健康保険証が廃止され、マイナ保険証への一本化が進んだ現在、救急現場では「マイナ救急」と呼ばれるシステムの運用が本格化しましたが、理想と現実の間には大きな乖離が生じています。この記事では、救急搬送の現場で実際に起きているマイナ保険証のトラブルについて、技術的な原因から現場への影響、そして私たちができる対策まで詳しく解説します。

救急搬送でマイナ保険証を使う「マイナ救急」とは
マイナ救急とは、救急隊員がマイナンバーカードを活用して傷病者の医療情報を現場で取得し、搬送先の医療機関選定に役立てるシステムです。総務省消防庁と厚生労働省が推進するこの仕組みは、2024年度に67消防本部の660隊で実証事業が行われた後、2025年10月1日から全国展開されました。総務省消防庁は導入に約20億円をかけており、傷病者の特定健診情報や薬剤情報を救急隊が現場で把握できるとされています。
理論上、このシステムは非常に合理的な構想といえます。意識障害や認知症により自らの病歴を語れない患者にとって、クラウド上に保存された医療データは貴重な情報源となります。禁忌薬の投与を回避したり、適切な専門医がいる病院への搬送を実現したりする上で、大きな助けとなる可能性を秘めています。
しかしながら、このトップダウン型の政策決定プロセスにおいて、実際の救急現場が抱える物理的・環境的・心理的な制約条件が十分に考慮されたとは言い難い状況です。先行して実証事業に参加した自治体の現場からは「使えるケースが少ない」「活動時間が長引く」との声が上がっており、利用実績が搬送件数のわずか1%程度に留まっている消防本部もあると報告されています。政府が描く理想像と、現場で発生している実際のトラブルとの間には、埋めがたい溝が存在しています。
マイナ保険証が読み取れない技術的な原因
救急現場でマイナ保険証が読み取れないトラブルには、複数の技術的要因が絡み合っています。
ICチップとカードリーダーの相性問題
マイナンバーカードに搭載されているICチップは、ISO/IEC 14443 Type Bという近接型通信技術を採用しています。この規格は、リーダーとカードの距離が数センチ以内で、安定した状態での通信を前提として設計されています。
しかし、緊迫した救急現場では理想的な通信環境を確保することが極めて困難です。搬送資機材や患者の身体、隊員の手袋などが干渉し、正確な読み取りができないケースが発生しています。さらに、長期間使用されたマイナカードでは、財布の中での摩擦や圧力により、アンテナコイルの断線やチップ表面の摩耗が起きていることもあります。肉眼では異常が見られなくても、リーダーにかざした瞬間に「読み取りエラー」や「通信断絶」が発生するのは、こうした微細なハードウェア障害とリーダー側の感度不足が複合的に作用した結果です。
接触型(差し込み式)のリーダーを採用している場合は、別の問題も生じます。高齢者のカードには手垢や埃、粘着物質が付着していることが多く、これらがリーダーの端子を汚染してしまいます。一度端子が汚染されると、その後の読み取り成功率は著しく低下します。救急隊員が現場で接点復活剤やクリーニングカードを使用する余裕などあるはずもなく、結果として「リーダーが反応しない」という事象が頻発することになります。
モバイル通信網の不安定さ
マイナ救急システムは、現場で読み取った情報を閉域網(VPN)を経由して「オンライン資格確認等システム」の中央サーバーに照会し、回答を得る仕組みとなっています。このプロセスには常時安定した高速通信が必要ですが、移動体通信(LTE/5G)に依存する救急車にとって、これは非常に高いハードルです。
山間部、トンネル、高層ビルの谷間、地下室などでは電波圏外となったり、パケットロスによる接続失敗が起きたりします。VPNトンネルの構築時には、帯域幅の不足や回線混雑によるスループット低下でタイムアウトが発生することもあります。データベースへの照会時にはサーバー負荷やネットワーク遅延により「処理中」画面から先に進めなくなるケースも報告されています。
特に致命的なのが、暗号化通信におけるパケットロスの影響です。高度なセキュリティを担保するため、マイナカードの認証プロセスは厳密なセッション管理を行っています。通信環境が不安定な現場でパケットの一部が欠落すると、システムはセキュリティリスクと判断してセッションを強制終了させます。現場の隊員から見れば、電波のアンテナが立っているにもかかわらず「通信エラー」が表示される不可解な現象となりますが、その背景にはリアルタイム性を重視する救急活動と、完全性を重視するセキュリティプロトコルの間の設計上の矛盾が存在しています。
大規模災害時や突発的な事故現場においては、一般市民による安否確認や動画アップロードにより周辺基地局の帯域が逼迫する「輻輳状態」が発生します。この状況下で、優先制御が十分に効かない一般のLTE網を使用している場合、救急隊のタブレットはサーバーに到達することすらできません。皮肉なことに、情報を最も必要とする緊急時において、最も役に立たないシステム構成となっているのです。
顔認証と暗証番号入力が救急現場で機能しない理由
技術的に通信が確立したとしても、その前段階である本人確認のフェーズにおいて、救急現場特有の障壁が立ちはだかります。
顔認証の限界
顔認証付きカードリーダーは医療DXの象徴的なデバイスですが、そのアルゴリズムは「平常時の健康な顔」を学習・照合するように設計されています。救急搬送される傷病者の顔貌は、この平常時から大きく逸脱している場合がほとんどです。
交通事故や転落による顔面の挫傷、裂傷、出血、腫脹といった外傷は、顔の特徴点を著しく変形させるため、照合不一致の原因となります。心不全による浮腫、アナフィラキシーショックによる顔面腫脹、脳卒中による顔面神経麻痺なども同様に認証精度を低下させます。さらに、酸素マスク、経口エアウェイ、頚椎カラー、包帯といった処置具は顔の大部分を物理的に覆い隠すため、カメラが顔として認識すること自体が困難になります。
照明環境とカメラアングルの問題もあります。顔認証には適切なライティングが必要ですが、救急車内は薄暗い場合もあれば直射日光が差し込む場合もあり、夜間の路上では街灯のみというケースもあります。ストレッチャーに横たわっている患者に対し、タブレットのカメラを適切な角度で向けることは、狭い車内では非常に難しい作業です。
暗証番号入力の非現実性
顔認証が失敗した場合、または非対応のリーダーを使用する場合は、4桁の暗証番号入力が求められます。しかし、これは救急現場においてさらに高いハードルとなります。
救急要請をする患者の多くは、意識レベルが低下しているか、激痛、呼吸困難、パニック状態にあります。このような状態で正確に4桁の数字を想起し入力することは、神経学的にも困難です。特に高齢者の場合、認知症の有無にかかわらず、緊急時のストレス下で記憶が飛ぶことは生理的な反応といえます。「暗証番号は何ですか?」という問いかけ自体が、苦しむ患者に対する尋問のように響き、患者と隊員の信頼関係を損なうリスクすらあります。
マイナンバーカードの暗証番号は、3回連続で間違えるとロックがかかり、役所での再設定が必要となります。この仕様は一般的に知られているため、患者自身や家族が「間違えてロックされるのが怖いから、入力したくない」と拒否するケースが発生しています。救急隊員もまた、善意の救護活動の結果として「患者のカードを使えなくしてしまった」という責任を負わされることを恐れ、積極的な入力要請を躊躇する傾向があります。
目視確認モードの運用課題
顔認証も暗証番号も不可能な場合の救済措置として、救急隊員の権限による「目視確認モード」が存在します。これは券面情報の目視と隊員カードによるロック解除を行う方式ですが、この運用にも課題があります。
原則として本人の同意が必要とされるため、意識不明者の場合は事後的に「勝手に見られた」というプライバシー侵害の訴えを起こされるリスクがゼロではありません。また、目視モードの使用はすべてログに記録され、事後の監査対象となり得ます。隊員は自身のIDでアクセスした履歴が残ることに心理的な圧迫感を感じ、「後で説明を求められるくらいなら、使わない方がマシだ」という回避行動をとる傾向があります。
救急現場への深刻な影響
システムトラブルは、単に「情報が見られない」という結果に留まらず、救急活動全体のフローを撹乱し、隊員のパフォーマンスを低下させる副作用をもたらしています。
現場滞在時間の延長という本末転倒
救急医療の基本原則は「早期搬送」です。現場での処置を最小限にし、根本治療が可能な医療機関へ一刻も早く搬送することが救命率を向上させます。しかし、マイナ保険証の読み取りプロセスは、この原則に逆行する時間の浪費を強いる可能性があります。
従来の手法では、家族からお薬手帳を手渡してもらったり、冷蔵庫に貼ってある救急情報を確認したりすることで、目視で即座に情報を確認できました。一方、マイナ救急では、まずカードを探し、財布を開け、読み取りを試みます。理想的には30秒から1分程度で完了するはずですが、エラーが連発して再起動や再試行を繰り返すと3分から5分以上かかることもあります。結局、従来の聞き取り方式に戻らざるを得なくなり、二度手間となるケースも少なくありません。
重症患者において、この数分は生死を分ける可能性のある貴重な時間です。隊員は「システムを使うこと」自体が目的化し、本来の目的である迅速な搬送が阻害されるジレンマに直面しています。
カード管理責任と紛失リスク
救急現場は混乱した状況になりがちです。狭い車内でストレッチャーへの移乗、衣服の裁断、点滴ルートの確保などの処置が同時並行で行われます。この状況下で、患者の財布からマイナカードを取り出し、リーダーに挿入し、読み取り後にまた財布に戻すという一連の作業は、極めて高い紛失リスクを伴います。
もし搬送後にカードが見当たらなくなった場合、誰が責任を負うのかという問題が生じます。マイナンバーカードは銀行口座連携や公的証明書としての機能も有するため、その紛失は従来の健康保険証の紛失とは比較にならない実害と精神的苦痛を患者に与えます。この「管理責任のリスク」こそが、現場の隊員がマイナカードに触れたがらない深層心理的な要因となっています。
情報の紐づけミスによる医療過誤の危険性
過去に社会問題となった「公金受取口座の誤登録」や「他人の薬剤情報の紐づけ」問題は、救急現場においては致命的な医療過誤につながる恐れがあります。
例えば、救急隊が読み取ったデータに「抗凝固薬なし」と表示されていたため、血栓溶解療法が可能と判断して搬送したものの、実際には紐づけミスでデータが欠落しており、患者は抗凝固薬を服用していたというケースを想定すると、致死的な出血性合併症を引き起こす可能性があります。
デジタルの情報は「正しいもの」として扱われがちですが、データの真正性が100%保証されない現状では、隊員は表示されたデータを鵜呑みにできません。結局は家族への聞き取りやお薬手帳でのダブルチェックを行わざるを得ず、業務効率化どころか確認作業が倍増している状況です。
マイナ保険証で取得できる医療情報の限界
読み取りが成功したとしても、そこに表示される情報が救急活動に必ずしも役立つとは限りません。日本の医療情報システム特有の「データの鮮度」と「網羅性」に関する問題が存在しています。
レセプトベース情報のタイムラグ
マイナ保険証を通じて閲覧できる薬剤情報や診療情報は、主に「レセプト(診療報酬明細書)」のデータを基にしています。レセプトは医療機関が月単位でまとめて審査支払機関に請求するものであり、そのデータがシステムに反映されるまでには、診療後1ヶ月から2ヶ月のタイムラグが生じます。
救急医や救急隊が最も知りたい情報は、「今朝、何の薬を飲んだか」「昨日、どこの病院でどんな処置を受けたか」という直近のリアルタイム情報です。しかし、マイナ救急システムが表示するのは1ヶ月以上前のデータであり、直近の投薬変更や急変前の受診履歴は空白となっている可能性が高いのです。この「情報の空白期間」は、急性期医療における意思決定において致命的なミスリードを招く恐れがあります。
電子処方箋の普及遅延
リアルタイムな投薬情報を把握するためには「電子処方箋」の完全普及が不可欠ですが、その導入率は依然として途上にあります。多くの医療機関や薬局では、いまだに紙の処方箋やお薬手帳シールが主流となっています。
結果として、マイナ救急で見られるデータは「デジタル化された一部の過去データ」に過ぎず、患者の全体像を反映していません。お薬手帳(紙)には、患者自身が書き込んだメモや市販薬の服用状況、サプリメントの情報が含まれていることがありますが、マイナデータにはそれらが欠落しています。情報の網羅性という点において、皮肉にもアナログなお薬手帳の方が優れている側面があるのです。
資格確認書への回帰現象
政府はマイナ保険証を持たない人向けに「資格確認書」を発行しています。これは実質的な紙の保険証の代替手段です。救急現場の視点から見れば、バッテリー切れもなく、通信エラーもなく、汚れても文字が読めれば機能する資格確認書の方が、圧倒的に信頼性が高いといえます。
マイナ保険証のトラブルが頻発すればするほど、現場では「トラブルの少ない資格確認書を出してください」という運用が定着し、デジタル化への逆行が進むという皮肉な結果を招いています。
高齢者特有の課題
救急搬送の主要な対象である高齢者層において、マイナンバーカードは「大切なものだから金庫やタンスの奥にしまっておく」という意識が根強くあります。常時携帯している割合は低く、いざ救急車を呼んだ時に手元にないケースが多く見られます。
また、電子証明書の有効期限(5年)を知らず、気付かないうちに失効しているケースも少なくありません。現場でカードを提示されたものの「証明書失効」のエラーが表示される場合、隊員には対処する方法がありません。
救急搬送時のトラブルに備えて私たちができる対策
マイナ保険証のデジタルシステムには脆弱性があることを認識した上で、私たちができる自衛策を講じることが重要です。
アナログのバックアップを用意する
電池切れや電波障害、サーバーダウンといったリスクに備え、電源不要のアナログ情報を併用することをお勧めします。お薬手帳は常に最新の状態に保ち、救急時にすぐ取り出せる場所に保管しておきましょう。冷蔵庫に貼る救急情報キットも有効な手段です。持病やアレルギー、服用中の薬の情報をまとめたメモを財布に入れておくことも、いざという時に役立ちます。
直近の処方薬は現物を用意する
マイナポータルで見られる情報は最新ではないことを認識しておく必要があります。1ヶ月から2ヶ月のタイムラグがあるため、直近で処方された薬がある場合は、薬の現物やお薬手帳を救急隊に見せられるよう準備しておきましょう。
暗証番号の管理
マイナカードの暗証番号は、本人または信頼できる家族が把握しておくことが大切です。ただし、セキュリティの観点からカード自体に暗証番号を記載することは避けてください。
電子証明書の有効期限を確認する
マイナカードの電子証明書には5年の有効期限があります。期限が近づいたら早めに更新手続きを行い、いざという時に使えない状態を避けましょう。
救急隊員への理解を
救急現場でのマイナ保険証読み取りエラーは、隊員のスキル不足ではなく、システムの構造的な欠陥に起因しています。現場で「読み取れない」「エラーが出る」といった状況が発生しても、救急隊員を責めることは適切ではありません。彼らは限られた時間の中で、患者の命を救うために最善を尽くしています。
マイナ救急システムは発展途上の技術であり、今後改善されていくことが期待されます。現時点では、デジタルとアナログの両方を併用し、万が一のトラブルに備えることが最も現実的な対応策といえるでしょう。
まとめ
救急搬送時にマイナ保険証が読み取れないトラブルは、ICチップの物理的な問題、モバイル通信の不安定さ、顔認証や暗証番号入力の限界、データ連携のタイムラグなど、複合的な要因によって発生しています。2024年12月の健康保険証廃止後、マイナ救急システムへの依存度は高まりましたが、現場では依然として多くの課題が残されています。
私たちにできることは、デジタルシステムの限界を理解した上で、お薬手帳や救急情報キットといったアナログのバックアップを併用することです。自分や家族の命を守るために、デジタルだけに頼らない備えを心がけましょう。

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